すっかり秋の空気になり、こうなると寒くなるまでにあまり時間はかからない、そんな季節になりました。昼間に暖かくとも日が落ちると途端に肌寒くなります。左手に雑木の生い茂った斜面を見やり、その上や下に暮らす野良猫たちに思いを馳せながら二匹の柴犬ポンタと楓を連れて歩いていました。ここは新しく家族になった野良猫ペロのふるさと。この界隈で彼女は産まれ、育ち、仲間と遊び、そして病気になり、徐々に弱る中である日足に大怪我を負ったのです。いいことも、悪いこともいろいろあったでしょう。
前回、前々回と野良猫ペロの話をずっと書き連ねてきました。弱りはて、汚らしく汚れて臭っていた野良猫が、様々な治療や病苦と闘いながらきれいな飼い猫になっていったお話です。
さて、今回でペロのお話は終わりにしようと思うのです。
しかし、それにはいつもよりもページ数を割かないと書ききれそうにありません。
春に一度突然の貧血に見舞われもうダメかと思うほどの呼吸困難から立ち直ったペロは、もうすでに僕たちの心の中にしっかりと腰を落ち着けてしまい、ペロを家族として受け入れることに
もはや何のためらいもなくなっていた僕たちはペロをそれまでのケージ飼いを止めて自由にしてやることにしたのです。
しかし、それにはちょっとした問題がありました。それはペロがもっていた感染症 「猫後天性免疫不全」 通称猫エイズのことです。
ここは病院です。患者様の猫を扱うところ。それにうちにも既に先住猫の「しろくろ」がいます。
その中にあってペロを自由にさせてよいものか、ということです。
ここでエイズという病気についておさらいをしないといけません。猫のエイズは人のエイズ同様に体の免疫機能を低下させ、またその病気独特の様々な症状で猫を苦しめ、最期は死に至らしめる恐ろしい病気です。日本に於いては人のエイズとは比べ物にならないほど蔓延しており、近所の野良猫を10匹も捕まえてくればおそらくその中に数頭はエイズウイルスに感染した猫がいるはずです。エイズウイルスは感染してもはじめのうちはほとんど何も悪さをすることは無く、猫は見かけは健康的に数年間を過ごします。しかし何年か経つとかなり高い確率で症状が出はじめます。一度発症した猫は遅かれ早かれ死の転帰をたどるのです。おそらくこれを読んでいる方の中にもエイズを持った猫をお世話している方も少なからずいらっしゃると思います。
猫のエイズは人には感染しません。では猫同士ではどのように感染するのでしょうか。人の場合と違い性交渉で感染するわけでもないようです。感染経路として圧倒的に多いのが猫同士の喧嘩です。エイズに感染した猫にかみつかれたり、ひっかかれたりして皮膚に傷を負うとそこから感染するのです。ところがそれ以外の経路ではなかなか感染しないことが知られています。たとえば一緒にいる、同じ器で食事をする、トイレを共用する、などでは感染しないといわれています。これは人のエイズにも言えることです。人の場合エイズの存在が世に喧伝されるようになった1980年代頃、とくに欧米ではエイズ患者に対する人権侵害ともいえるほどの差別、排除が社会問題になりました。エイズを恐れ、一緒にいるのも恐ろしいと不当に仕事を解雇される、家族と別居を強いられるなどエイズ患者は病気以外に社会的迫害にも苦しめられるという二重苦を味わったものです。
話が脱線しました。さて、ペロがうちで自由に過ごすための最低限の条件、それはしろくろと争うことなく穏やかに同居ができることです。これができなければ自由にすることは無理です。
ペロは数か月間ケージの中だけで過ごしてきましたが、その間にしろくろ、ポンタ、楓の存在は既に認識しています。そしてしろくろやポンタ、楓ももちろん最近新しい猫が病院に居着いていることを十分わかっています。時々ペロの部屋にこっそり扉を開けて侵入していることも知っていました。これまでに特に目立った諍いが生じたことはありません。これなら一緒に暮らせるのではないか?なんとなく勝算はあったのですが最後の最後は出たとこ勝負。信じるしかありません。
ペロを院内で自由にしてみたのです。これまでもケージの置いてある手術室の中だけはある程度自由に歩き回っていましたがすべての垣根を取り払いどこへ行ってもいいようにしたのです。手術室から出てきたペロ。あたりを見回しながらゆっくり歩いてはまた立ち止まり、見まわします。しろくろは遠くから緊張した表情でペロをじっと睨んでいます。猫が好きなポンタと楓は無遠慮にペロに近づいて臭いを嗅ぎます。どうもこの遠慮のない、しかし静かな犬たちの挨拶は場を和ませるのにちょうどよく、しろくろが初めて院内で自由になった時もこの洗礼を受けながらも特に逃げるでもなく臭いを嗅がれていたものでした。そして今、ペロもあの時と同じように犬たちの挨拶を嫌がることなく受け入れたのです。ペロが慎重に初めての場所を一つ一つ臭いを確かめ、隙間に顔を突っ込んではまたあたりを見まわしている間、犬たちは珍しそうにその傍らで見守るのです。
(緊張するペロをポンタ君が優しく出迎えます。この無防備な好奇心が緊張をほぐすのに役に立つのです。)
(犬に囲まれながらペロの冒険が続く…)
さて、一方しろくろはと言えばペロに近づこうとはしません。結局初日は猫同士の接触はないまま終わり、ペロをケージに戻してやったのでした。しろくろとの折り合いについてはまだ何とも言えません。でも、たぶん大丈夫だろうな、という感覚的な確信を持ちました。
次の日も、また次の日もペロの自由時間を作ってあげながら観察する日々が続きました。ペロはどうも犬たちやしろくろに特段の警戒心を持っていないようです。むしろしろくろが慎重になっていいます。それでも何日も経つうちにしろくろも少しづつ近づこうとするようになりました。以前よりは近い距離で、しかしまだ一線を越えないままにペロをじっと見ています。さらに数日がたったある日、しろくろは不意にゆっくりとした足取りでペロに近づきはじめました。慎重に臭いを嗅ぎながら近づいてきます。ペロはというとちょっと緊張した面持ちで座ったきりじっと動きません。目線をしろくろと合わせずじっと座っているのです。しろくろの方からゆっくりと、ゆっくりと近づいて、もう鼻先がペロに届くほどに接近した時です。しろくろが 「シャァ~ッ!!」 とうなると同時にペロにパンチをして走り去っていったのです。ペロはそれを必要以上に避けるでもなく打たれるままに打たれ、それでもじっと座っていたのです。バカなしろくろ君。反対にパンチされたら命取りなのに。
爪も出さない威嚇のためのパンチ。それを身じろぎせず受け入れたペロ。
これならいけそうだな、時がたてば二人は家族になれそうです。ペロは実に穏やかな女の子でした。
一方で僕たち人間に対してはすっかり心を委ねてしまってるのか、その甘え方は思わず笑ってしまうほどです。膝に乗っかりゴロゴロゴロゴロ……掌に頭をグイグイと押し付けると、そのうちにびっくりするほどたくさんのよだれが出てくるのです。
なんとだらしなくも可愛らしい甘え方でしょうか。野良猫として産まれ、生きてきた子がこんな甘え方をするなんて!
ペロはおもちゃのボール、段ボールの箱、またたびの木、なんだって気に入って夢中で遊ぶのです。
(かくれんぼ) (怪獣ペロゴンに襲われたぁ!) (いっぱい遊んで今日も満足満足)
(またたび大好き!) (かくれて待ち伏せ、しろくろが近づいて来たら ワァっ お転婆です)
自由に慣れたペロはそれこそ子猫のような無邪気さで、健康で平和に暮らせることの嬉しさを存分に味わっているかのようでした。
この無邪気さにようやく警戒を解いたしろくろとも少しづつ遊ぶようになっていきました。一つの猫じゃらしを二匹で追いかけまわし
たり、ペロが物陰からしろくろをわぁっと驚かせては二匹で走り回ったり。しろくろもこれまで犬たちとの付き合いがありましたが、
猫同士のこうした無邪気な遊びは経験がなかったのです。
今まで味わったことのない猫同士の遊び、その楽しさに徐々に目覚めていくようでした。
しかし、この平和な暮らしはとても不安定なものだったのです。というのも、ペロは元気な時はそれこそ天真爛漫そのものでしたが、
ひと月に一度の頻度で極端に調子を崩すのでした。前号でも記したような極端な貧血症状に悩まされていたのです。そのため元気な時でも定期的に注射をします。ペロはこれが嫌で嫌で仕方ないのです。一見元気でもひとたび不調になるとあれよあれよという間に酸素吸入が必要になるまでに具合が悪くなっては回復する、を繰り返していたのです。
(それまでの元気が嘘のように無くなってしまうのです)
春の繁忙期が過ぎ夏本番!ペロは幾度かの貧血症状をその都度克服し、幾分不安定ながらも楽しい暮らしをしています。
しろくろともすっかりうちとけました。一緒にいることが多くなりました。
不安定であるとはいえ、大半の時間を元気に遊びまわって暮らすペロ。安心しきった寝顔で眠るぺろ。無防備におなかを晒して寝転がるペロ。産まれた場所を離れ、おそらく昔の仲間とも離れ離れになり、大怪我で生きることすら困難なところまで追いつめられたペロがようやくつかみ取った安住の地です。
この二人の姿を見てしみじみと思いました。ペロをうちの子にして良かった。しろくろにも楽しい友達ができて、猫としての幸せを味
あわせてやれたような気がしました。
僕はペロの生き様を病院通信にしたためることにしたのです。エイズを抱えながらこんなに幸せになった野良猫がいるのだ。
それを多くの人に伝えたくて書き始めたのです。まさかこういう結末を書くことになるとは考えもしないで……。
それは8月がそろそろ終わろうかというころのことでした。
ペロは数日なんとなくあまり遊ばない日々が続いたのです。
もうこれまでに何度となくこうしたことを繰り返していましたから、「あ、また始まってしまったか」なんとなくはわかって
いたのです。気が付いた日から、いつでも酸素テントが使えるように準備を整え、夜も念のため病院に泊まり込むことにしたのです。
これまでもそうした看病の中、幾度となく立ち直ってきたペロです。
今度もきっと頑張ってくれるはず。そう願いながらペロのための泊まり込みの生活がスタートしたのです。そう、最後の闘病が…。
実のところ、ペロが抱えているエイズという病気には特に有効な治療があるわけではないのです。その場その場での症状に合わせて改善を目論む治療はするのですが、エイズそのものを治すことはできないのです。ペロの場合極端にひどい症状は貧血です。貧血とは血液中の赤血球という細胞が減ってしまった状態を言います。重度の貧血になると、酸素の運搬を担う赤血球が減りすぎることで体が酸素不足に陥り、あたかも酸素が極端に薄い高山や、さらに酸素の薄い成層圏まで連れていかれてしまったのと同じような呼吸困難な状態になってしまうのです。
様子がおかしくなって三日目の昼間、ついにペロは朝に食べたものを戻してしまうと、いきなり必死な表情で口を開け舌を出してあえぐように苦しみ始めたのです。何回見ても戦慄の走る瞬間です。あわてて酸素テントを組むとペロをその中に収め酸素吸入を始めます。これまでに何度もやっていたので手際はよくできたのですが…。テントに入ったペロは酸素の濃い空気を吸うことで少し安静を取り戻しました。が、すぐに出られるわけではありません。貧血が改善するまでの数日間はこの中で暮らさなければなりません。もうすでに3日前から貧血のお薬は注射を続けている中で状態が悪化していることに不安を覚えたことを今でもはっきり覚えています。
ペロの舌は貧血のため血色を失い、テントの中でじっと伏せたままやや早めな呼吸を保ったまま動こうとしません。僕も時間の許す限りはテントの横で過ごします。テントの中は気温や湿度が調整できません。なんといっても僕がビニール袋と組立ケージで作った簡素な酸素テントです。粗末なものなのです。そんな中に閉じ込めておかなければならないことがとても不憫ですが、今のペロはここから出すと呼吸ができないほどに貧血がひどいのです。しかし、これまでもこのレベルの貧血から見事立ち直ったペロです。きっと数日のうちにここから出られるはずです。
呼吸がやや早めながらもご飯を入れてあげるとある程度は食べるのです。まだ頑張れそうです。
夜になり、僕はペロの横にキャンプ用のコットを組むとそこで寝ました。夜、ポンタも楓もしろくろも寝静まった中、ペロは普通よりは早めな呼吸を保ったまま、眠れているのか、眠れていないのか、とにかく身じろぎせず体を伸ばして半身で寝ているのです。
「明日の朝になったら少し元気にならないかしら?」
淡い期待を胸に、眠ることにしました。夜中、ペロはおしっこを何回かしました。換気ができないテントです。臭いが充満して可哀そうです。すぐにペットシーツをとりかえてあげるのですが、これが問題で取り換え作業のために酸素テントを開けると一気に大気中の酸素濃度が下がり、ほんの数分でペロの呼吸が早くなってしまうのです。あらかじめペットシーツ、消毒スプレー、ペーパータオルなどを手元に用意し最短時間で済ませるのです。あたかもF1レースのピット作業のようです。
そんなことを夜中に三回もやったでしょうか、ぐっすりとは眠れないままに夜があけたのです。
朝、ペロは昨日とたいして変わらない様子です。お世辞にも良くなっているとはいい難い。
まだ酸素テントに入って二日目、これから徐々に上向くさと言い聞かせながら募る不安をグッと飲み込んでその日の仕事にかかるのでした。
ペロは苦しい呼吸の中、それでもどうにか食事は食べるのです。その食べる姿に希望を見出しながら仕事をし、空いた時間に様子を見に行くとさっき食べたご飯を吐いてしまっているのです。可哀そうに、これでは体力が落ちてしまいます。貧血だって良くなりにくい…。
夜、仕事がひと段落したところでペロに点滴と注射をしてあげます。ところがペロは人一倍注射が嫌いな子です。しかも点滴は時間がかかります。酸素テントを開けただけでも呼吸がおぼつかないのに、さらに興奮させるのだからその刹那に呼吸が限界を越えてしまわないか心配で仕方ありません。そしてやはり、点滴をどうにかなだめすかして終わらせるとペロはその場で嘔吐をすると口を開け、目を見開き必死な形相になって呼吸を荒げるのです。今夜はどうにかできました。でも明日はこんなことをしている最中に絶命してしまうかもしれない。何とも言えない不安と恐怖がこみあげます。元気な時には見ることのないペロの生気のない顔つき。一瞬注射や点滴は止めて様子を見ようかなどと弱気な僕が頭をもたげます。でも、冷静に考えれば、治療をしている中で悪化してるペロが何もしないで回復するとは到底思えません。 「やるしかないんだ…」
なんとなく先が見えないまま二日目の夜を迎えたのです。今夜もペロにつきっきりです。
夜中、なにやら音がします。どうしたのかな?中を覗き込むとペロがお水を飲んでいます。いや、飲もうとしているのですが、舌は水面を空振りし、ただ無闇にぺろぺろと舌を出し入れするばかり。ちっともお水が飲めていないのです。そんなことを何分間も一心不乱に続けるペロ。
「大丈夫かい?ペロ……。」
ご飯を食べても吐いてしまう。お水を飲むこともちゃんとできない。それではと点滴をしようにも激しい呼吸困難が襲い掛かる……なにか、真綿で首を絞められるようにじわじわと八方塞がりな状況に陥りつつありました。嫌でも悪い考えが頭をよぎります。
「でも、今夜は点滴も注射もできたんだ。朝には少し良くるかもしれないぞ」
励ましてやりたくてビニールの外から寝ているペロの頭を指先でなぞってやりました。ペロは身じろぎもせず寝たままです。
朝です。疲れてきました。連日の看病がこたえているというのもあります。が、なんといってもいっこうに良くなる気配がない不安感が心をむしばみ始めてきました。昨夜はおしっこをするたびの掃除の時のペロの苦しみ方が徐々に悪くなってくるのを感じながらの夜だったのです。これまでなら三日目くらいから回復の兆しが見えたものです。今回はそれがいっこうに見えないのです。むしろ徐々に悪くなっているのが分かるのです。
「こんな調子では今夜は点滴の5分間を耐えることは難しいのでは…」
悪くなるほどに治療することすら許されないという状況。ペロはテントの中で必死に耐えています。ペロの顔を見るのが辛いのです。不安におびえたような、疲れ果てたような、表情というものがペロの顔から消えたような嫌な顔なのです。
酸素テントに入って三日目。このころから、ペロは1分に満たない短時間でも酸素テントをあけるとまるで空気を追い求めるようにテント内をウロウロと歩き回ったかと思うと嘔吐をし、口を開けて苦しむようになってきました。もはや普通の大気中で生きることが困難な状況になっているようです。ずっとテントを締め切っているせいで中はきっと蒸れたり、暑かったり、さぞ不快なことでしょう。それなのに空気を入れ替えてあげたいと思っても、それすらできないのです。
「ペロ、苦しいのかい?つらいね… きっと良くなるからな。きっと明日には少し良くなるんじゃないかな」
(どんなにか苦しいことか。もう何日もこの中から出ることもできず、やっと開けてもらえたと思うと激しい呼吸困難と
吐き気に襲われてしまうのです。ペロも恐らく恐怖を感じていることでしょう。ビニール1枚隔ててすぐそこに居るのに、
撫でてあげたいのにそれすら許されない。)
そんなことを言ってる暇にもペロはおしっこをします。もう今となってはペットシーツ一枚取り替えるのですら命がけなのです。準備を整えて、僕たち二人が連携していかに早く作業を終わらせようともペロはやはり少し開けただけで体をぐらっとふらつかせ倒れそうになるのを必死に踏ん張ったかと思うと吐いてしまうのです。たった今取り替えたシーツが吐物で汚れる、これをきれいにするためにはまたペロに苦しい思いをさせなければいけない。だんだんおしっこのお掃除ですら困難になってきました。でも、そのうちにまたおしっこをしたらその時はまた…
絶望感。あまりにも病気が厄介すぎる。
今回ばかりはもしかすると…僕たちはあまり考えたくない展開を予想しないわけにはいかなくなってきたのです。
これまでにも度々大きく調子を崩してきたペロ。きっと長くは生きられないだろう。薄々そう感じながらもあまりに無邪気に遊びまわるペロの姿からそれを現実のこととして考えることを拒絶しているところもありました。それでも、もし短命に終わることになったとしても悔いの残らないように、ペロにできることはやってきたつもりでした。ちょっと今日はあまり遊ばなかったなと言っては泊り込んだり。元気なうちも注射を欠かさなかったり。病院通信を通して多くの患者様に気にかけていただき、「本当に大変ですね、よくそこまで、」と励ましのお言葉を頂いてきました。僕たちがこれだけやってこれたのはとにかく僕たちがペロのことが好きで、そしてきっとペロも僕たちのことが好きなのだと確信をもって感じられる仲になったからなのです。
これまで調子を崩してきた時もペロはじっと耐えて、最後は見事に酸素テントから生還をくりかえしてきました。人間のようにあきらめたりは決してしないのです。何度だって立ち上がるのです。その頑張りには本当にこちらが学ばせてもらう思いでした。そんなペロにいまさら「頑張れ!」などと声をかけるのはむしろ酷というもの。頑張れ、ありがとう、などとプレッシャーをかけるだけの言葉や、終わりを予感させる言葉は慎みながらこれまでペロと対峙してきました。
しかし、今回、いやでも終わりの予感が頭から離れません。
八方ふさがりに追い込まれた今、僕たちはペロにどう接するべきか、そして、どうしてあげることがペロに良い事なのか、話し合ったのです。これまでにも話をしたことは何度もありました。でも、結局いつだって悲しい結末は避けることができ、最後の覚悟を決めるところまで至ったことはなかったのです。どこかで「また、戻ってくるんじゃないか」という気持ちでいたのかもしれません。でも、今回は本当にきちんと決めなければいけない、ペロをどう見送ってあげるのか、それを決めなければいけない、そういう段階に来たような気がしたのです。僕たちの中で結論は出ていました。このまま死の恐怖におびえたまま、抱っこしてやることも撫でてやることもできないまま、狭い中に閉じ込めっぱなしで孤独と不安の中ゆっくり弱って死んでいくなど、ありえない話です。いよいよ見込みがなければ、テントから出してあげて、抱きしめてあげながら見送るのです。ただ、呼吸困難の苦しみを最小限に食い止めながら最期を迎えさせてやるにはどうしたらいいか、その結論だけ確信を持った答えがでないままです。
もう、ただ思い悩みながらお世話をするだけ、治療すらできない、もう病院としてはほとんど機能していないに等しい状況の中、酸素テントの生活も三日目の夜を迎えたのです。
先が全く見えない酸素テントでの生活。いつになったら出してもらえるんだろう?きっとペロはそう思っているはず。もしかすると生きては出られないかもしれない、そんなことを知りもしないでペロはじっと耐えているのです。可哀そうで、今すぐにでも出してやって抱っこしてやりたくなります。
明日は良くなるのだろうか。治療をしないのに良くなるなんてことがあるのだろうか。
明日も一日生きていられるだろうか。
明日が無い。ペロの明日が見えない。
僕がそんなことを考えている間にも妻はどうやってペロにご飯をあげるかを考えていたようです。
もうテントを開けることすら許されない中、ひとついいことを思いついたようです。テントのビニールに小さな穴をあけてそこからスプーンを差し入れてあげるという方法です。これなら酸素濃度が極端に下がることはありません。はたして、これはうまくいきました。ペロはこんなに苦しい状況にあっても健気にちゅーるをぺろぺろとなめました。
「やった! 栄養が付けば少しはよくなるかもしれないしな!」
少しほっとした気持ちでその晩の泊まりの準備を始めました。
いろいろな残務整理を終えてペロのもとへ行くと
「吐いちゃった……。」
せっかく食べたご飯は残念ながら全て吐いてしまったのです。
この晩のことはあまり覚えてないんです。
とにかく何度もおしっこの掃除をしてやり、その都度激しく苦しみよろめくペロに謝りながら、もうこの作業を繰り返すことがいったいペロにとっていいことなのか疑問を抱きながら、ただペロに居なくなってほしくない一心でやるべく作業を淡々とやっていたのです。そしてペロに触りたくてビニール越しに触れてみてもペロは全く反応せずただただ呼吸を荒げて横たわっているだけで。もう意識が朦朧として、あまりわかってないのかな、なんて考えた記憶があります。そして、「もう、終わらせてあげよう」という思いと、「明日には良くなるかもしれない」という思いが浮かんでは消え、疲れてウトウトして。何も希望が見いだせないままそれでも朝はやってきました。
(どうして助けてくれないの?とでもいっているような顔。何かにすがりつくようにケージの柵にしがみつくペロ。
そして、昼以降になるとなんとなく寝姿にも力が無くなってくるように思えました。)
ペロが明らかに衰弱してきているのが見ていてわかります。無理もありません。おそらくこれだけ苦しい中、ペロもほとんど寝られていないのではないのでしょうか。なのにどうでしょう。こんなにも苦しいのにご飯は少しずつ食べるのです。なんという頑張りでしょう。でも、食べたものはほとんどをその後に吐いてしまいます。もはや何もできない僕はペロに何をしてあげるのが良いのか、それを考える思考が止まりつつありました。
ただただ、ペロが明らかに弱っていくのを見守りながらなにもしてやれずにこの日も日が暮れて行ったのです。
この夜、妻がペロを見ているからその間少し家で休んだら?といってくれたのです。それで僕は久しぶりに家に帰り風呂に入り、ほんの一時間強ではありましたが休息をとったのです。テレビではお笑い芸人たちがゲラゲラと陽気に笑っています。緊迫しきっていた気持ちがわずかにほぐれました。ずっと絶望的な状況の中に身を置くとどうしても悪い方へばかり考えがちだな、しっかりしなければ。そんなことを考えながら僕は晩御飯を済ませると病院に泊るべく戻ったのです。
そして、これが最期の夜になったのです。
病院に戻るとペロはおしっこをしていました。妻は、一人で掃除をするのは危険と判断して僕が戻ってくるのを待っていました。幾分気持ちがほぐれたように感じていても、この絶望的な状態には何も変わりがなく、むしろペロはこの苦しみから逃れることもできず、休むことさえ許されず必死に生きてることを改めて思い、自分だけがゆっくりしたことに罪悪感さえ感じます。
さて、またきれいにしてやらなければ……
僕たちは掃除の準備を整えると手早く酸素テントの扉を開けました。ペロ、すぐ終わらせるからね。汚れたシーツを取り除き、床に消毒のスプレーをすると、手元に準備しておいたペーパータオルで拭いて…でもどんなに手際よくやっても十秒もするとペロはまた怯えたような目つきで
「ウワァ~!ウワァ~!」と大きな声で叫び始めます。いつもの叫び声です。苦しいのです。もうペロにとってテントの扉を開けることが苦痛で仕方がないのです。叫び始めると決まってその後に
居ても立っても居られないといった風情で立ち上がったり向きを変えたりするのです。扉の外から入ってくる目に見えない死の恐怖から逃れようとでもするかのように、あるいは少しでも空気の吸えるところを探し求めていたのかもしれません。僕らは一秒も無駄にすまいと手早く掃除を済ませるとテントのビニールを隙間なくガムテープで貼り直しました。
ところが、です。ビニールを閉じ終わったとほぼ同時に、苦し紛れに無理に立ち上がったペロはバランスを崩して倒れそうになったのです。そしてかろうじて踏ん張った足がお水のお皿を蹴飛ばし、テント内に水をまき散らしてしまったのです。テントの中はびっしょり、ペロも濡れてしまいました。お皿は完全にからっぽ。これではお水を飲むこともできません。ペロはびっしょり濡れたシーツの上にへたりこんでしまいました。濡れたままペロは肩で大きく息をして、必死の表情です。
もう、ペロも疲れ果てた様子に見えます。必死に死から逃れようとして、もがいて、でも逃れることができない、そんなふうに見えます。僕らはペロに手を差し伸べることすらできない。撫でて安心させてやりたい。できることなら膝の上で甘えさせてやりたい。でも、もうそんなことできそうにありません。なんてことだろう、ペロの命と引き換えにしか抱っこをしてやれないのです。いつの間にかとんでもなく遠い所へ行ってしまったのです。こんなに近くにいるのに手が届かない所へ行ってしまったのです。命が尽きるまで、この狭いテントに閉じ込められ苦しみと孤独と恐怖を感じながらじわじわ弱っていくのかと思うとペロが可哀そうで、可哀そうで。もはやこれがペロのためになっているのか?そんな疑問が頭から離れません。もう終わりにしてあげるべきではないのだろうか?ペロはどうしたいのだろう?もしかしたら僕が疲れてしまっていて無意識のうちにこの苦痛から逃げたがっているだけなのではないのだろうか?本当はまだ見込みがあるのに自分が嫌になってしまってるということは無いか?もう助からないという見立ては本当に正しいのか?終わりにしてからやっぱり間違っていたなんて言ったって取り返しがつかないんだぞ!本当に終わりにするのが正しいのか?いやしかし、どう見てもこれはもうただ苦しませているだけじゃないか?じゃぁ終わりにするのか?終わらせるのは簡単さ。ペロをここから出せばそれですべてが終わる。間違いなく終わる。今なら簡単なことさ。問題は明日になっても、明後日になっても絶対に回復はしないのか?それはわからない。わからないけど、もうさすがに無理そうだ。長い間この仕事をしてきた僕の直感です。
ここから出したらペロは最後の最後でとても苦しい思いをするだろう。ペロは僕を恨むだろうか?
どうしたら苦しくないように終わらせてあげられるのだ?!でも、ペロにいなくなってほしくない。これからも一緒にいたい!ペロと一緒に暮らしたい!
どうすればいい!どうすればいい!
最後の決断をしかかって、すると喉の奥から得も言われぬ激烈な感情が声になってとびだしそうになり、そして「できるわけがない…」と気持ちを静める。目の前に濡れたまま苦しむペロがいる。
「きれいにしてやらなくちゃ……」
もう何をやってもペロが楽にならないのであれば、せめて中を居心地よいようにしてやらねば。
「またお水をひっくりかえしたら、どうしよう…………?」
妻がうまいことを考えました。きれいにした時にお皿を空のまま入れておいて、あとでテントのビニールに針を刺してそこから注射器を使ってお皿の中に水を入れるのです。これで少なくとも再びびしょ濡れになることは防げます。ペロがお皿をあらぬ方へ蹴飛ばしてしまうということがあるかもしれませんが、それはうまくいくことを祈るのみです。
さっきの苦しみも冷めやらぬ中、それを承知で僕たちは再度テントの中を整えるべくテントに手をかけたのです。
「いい?はじめるよ。せぇの!」
テントを開けるとペロは再び身の置き場もないような素振りで無理に立ち上がります。
「ウワァ~!ウワァ~! ウワァ~! ウワァ~!」
大急ぎで濡れたシーツを取り去って中を拭いて、新しいシーツを敷いて、その間もペロは叫びながらヨロヨロ、ドシンと尻もちをつきます。急いでテントの扉を閉めて酸素を充満させなければ!
手早くガムテープを張り終わった時です。ペロは再び無理に立ち上がるとこらえきれずにそのままドシンとへたり込み、とうとうおしっこを漏らしてしまったのです。そして、あぁなんということでしょう。おしっこがまるで狙いすましたようにお水のお皿の中に貯まってゆきます。これでは、これではお水が入れられない……
また元気でかわいらしいペロに戻ると信じてやってきた。
でも、酸素テントの中のペロはもう苦しさが限界をこえて、普通に立つ力さえない。
もう、力が入らないんだ。あんなにがんばり屋のペロが…
やれることはやりつくした。もうしてあげられることがないんだよ、ペロ!
やればやるほどかえって君を苦しめるばかりで………ペロ……
もう、何もできない もう、何も 。
妻が泣きはらした目で僕をじっと見ています。
言わなくてもわかりました。
「僕も同じこと思ってたよ。 もう、おしまいにしよう。」
ペロの最後は腕の中で看取る。そう決めてました。
テントの前に椅子を用意し、妻にそこに座ってもらうと、もう後はペロをテントから出してあげるだけです。早めに苦しみが去るように安楽死のお薬を用意します。
ペロはお別れの気配に気づく余裕もありません。ゆっくりさよならを言えないかもしれない。
願わくば少しでも早くにペロの苦しみが終わってほしい。腕に抱かれたら、ペロは喜んでくれるだろうか?。お別れの言葉を聞くだけの余裕がペロにあるだろうか?いろんな思いが頭を駆け巡ります。
お別れです。
「…… ペロォ!ごめんね!!!!」
扉を一気に開けて、ペロに手を伸ばしました。お腹に手を差し入れてグッと抱き上げました。ペロは驚いたのかケージの柵にしがみつきました。僕はあわてずにゆっくりそれを引きはがすと、素早くペロをテントから出して妻の腕の中に抱かせました。
「ペロ!ごめんね!助けられなくてごめんね!」
「ペロ!大好きだよ!ペロ!かわいいね!ペロ!ペロ!」
「もう苦しくないんだよ!大丈夫だからね!」
「ペロ!うちに来てくれてありがとうな!ペロ~!!」
僕たちはおそらく絶叫していたのではないでしょうか。腕の中で朦朧とするペロに伝わることを願っていろいろな言葉を投げかけたのです。
ペロは腕の中に抱かれると、これは予想外だったのですがとても穏やかな呼吸をしています。おそらくもう本当に力が無くなっていたのでしょう。
「フンッ ンック~ フッ ンック~ ンッ ク~」
ペロは腕の中に身を委ねたまま、もがくことも一切なく静かに身を横たえたまま、ゆっくりとした、絞り出すような呼吸を続けます。さっきケージにしがみついたペロ。しっかりと力を感じたのはあれが最後でした。
もう、息をする以外動こうとはしないペロ。お顔だってさっきまでとは違った穏やかな顔。たぶん、もう何もわからなくなっているのです。そう、苦しみすら感じないほどに…
やっと楽になったんだよ、良かったね、もう苦しくないんだよ、ペロ、かわいいペロ、僕らのペロ。
僕たちは泣きべそかきながら、その穏やかな最期をじっと見守ります。
あんなに無邪気だったペロの最期の時間です。
さようなら、ペロ、ブサカワペロ、くいしんぼうペロ、野良猫ペロ…………….
「ペロォォォッ!!!」
ペロ 四十九日も過ぎ、ペロの坂が秋になったよ
あっちで元気にしてるかい
なんのめぐりあわせか ここで暮らしていたペロが僕たちのところへやってきて
知らない所で不安だったろうに いつしか僕たちの家族になってくれて
僕たちもペロを大切にしたし ペロも僕たちを受け入れて あまえてくれた
一年にも満たない短い時間を ペロは駆け足で通り過ぎていった
僕たちには何ページ書いても書ききれないほどの思い出が残ったよ
可愛くて 楽しくて 面白い思い出が
約束したね 生まれ変わったら またここへおいで 困ったことがあったらここへ来るんだよ
その時 僕たちはそれがペロだとわからないかもしれない ペロも僕たちをわすれているだろう
でも いつか きっと かならず きっと きっとだよ
ありがとう ペロ かわいい子だったよ ペロ ペロ
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